「お前は、夢見がちだ。綺麗なものだけを見過ぎている」

突然脳裏に蘇った声はひどく懐かしく、耳鳴りにも似た奇妙な浮遊感を抱かせた。
声の主はもう大分前に付き合っていた、リクオの人生最初の恋人で、はっきりした物言いをする、男だった。今の今まで思い出すことなどなかったのに、ふと考えてみると、心の隅の引き出しに仕舞われていただけのように次々と、記憶が溢れた。いつも顰められていた眉のせいで険しい印象を抱かせる顔、表情の所為で目立たないながらも整った容姿、小さな体躯、傷付き傷付け、その傷を舐め合った時の、深く澱んだ感情。彼を見るたび、触れるたび、いとしい、と思っていたこと。その全てが、今再び熱を持って、リクオの心を焦がした。

発端は、今付き合っている恋人に言われた一言だ。彼と別れてから、正確には彼と別れて精神的にも成長し、好奇心にあふれた、ありふれた少年になったころから、リクオは次々と恋人を変える生活を続けている。女癖が悪いと言われることもあるものの、リクオからすればその時々の相手を愛しいと思っているのだから、ただ気持ちが醒めるのが早いだけだ。その中で一番新しい恋人、誰から見ても可愛らしく女らしい彼女が呟いた、その一言。

純粋だよね、と言われた。ゆるい巻き髪の向こうに微かに見える唇から、幾分か似つかわしくないその言葉を呟かれ、一瞬、思考が停止した。彼女は笑っていて、悪意がある訳では無さそうだったが、リクオにとってその一言は、苦い記憶を呼び起こすものだった。最初の恋人が、リクオを評してよくそう言っていたからだ。彼に関しては、余り良くはない意味で、純粋と言う言葉を遣っていた。何も知らない、白痴にも似た意味合いの彼のその言葉は、心を鋭く細く、しかし深くまで、抉った。
同年代よりは、色々と知っている自信があった。闇の世界に身を置き、特異な境遇で育って来たから、世間のことは大よそ、知っている気になっていた。それを打ち砕いたのが、彼の一言だった。

花開院竜二と言うのが、そのはじめて付き合った恋人の名前だ。五つ年上の男で、強い気の割に小さな身体を持ち、その奥に、誰にも見せないようなよわさを隠しているところが好きだった。年上の男を、守ってやりたいと思った。実際、最大限、守ってやろうとしたのだ。しかし途中で彼の意思とリクオの意思がそぐわなくなり、行き違いの末、二人は道を別った。それが、経緯だ。
そうして別れることになった時、竜二が最後に呟いた言葉は、今でも鮮明に思い出せる。僅かに残念そうに、しかいいつもの表情を崩さず、
「お前のことは、嫌いじゃなかった」
とだけ呟いて、あとは唇を閉ざした、最後の姿。あの時竜二は何を考えていたのか、少しとは言え成長した今なら、何となく、分かる気がした。
五つの年の差。考え方の違い。それらから生じる、不本意で絶対的な、擦れ違い。リクオがリクオなりのやり方で竜二を愛したように、竜二も竜二なりにリクオのことを好いていた筈だ。だからこそ二人は道を違ったのだと、思いたかった。何度か本気でぶつかり、お互い引かなかったのも、きっと。
リクオはその思いのまま部屋をひっくり返し、ようやく見つけた電話番号を、当時は持っていなかった携帯電話へ入力した。発信ボタンを押すとき、すこし手が震えたが、構わずボタンを沈めた。
出ない可能性は十分にあった。それ以前に電話番号を変えている可能性もあったし、他人が出ると言う可能性も否めない。出たとしても、彼の声が一度で分かるかどうかは、心許なかった。それでも、掛けた。一縷の望みに掛けてでも、声が聴きたかった。分かり合いたかった。例えそれが、自己満足でしかないとしても。
呼び出し音が7回を数えた時、電波を通して、懐かしい声が聞こえた。知らない番号から掛かって来たせいかその声は不審げで、しかしそれでも出るあたりが、彼の律儀さを感じさせた。

「…はい」

名前を呼ぼうとした、のに、息が詰まり、声にならない声が出ただけだった。掠れた、息でしかないその音を聴き取った相手は、それでも気付いたらしく、「お前、」とだけ呟いた。

「竜二、」

その名前を呼ぶのすら、久し振りだった。しかしその感慨に浸る暇などなく、最早抗えないほどの想いがあふれるのを感じながら、

会いたい。

そう、口にした。懇願にも近い言葉だった。電話口で、小さく笑う音が聞こえて、また新しく始めることが出来るかも知れないと思った。









来る日々









2012/7/24