こころたゆたう



「…おい、」

竜二は壁に押し付けられたまま凄む。しかしリクオは意に介さず、襟を肌蹴させて鎖骨に口付けた。どうしてこんなことになっているんだ、と内心思いながら、舌打ちをひとつ。頭上から舌打ちが振って来てもリクオは気にしない。やたらと肌に触れて来るその口元は寧ろ笑んでいて、竜二を苛立たせた。年下の、しかも妖怪に言い様にされるなど自尊心が許さなかったが、無理に抵抗するのも馬鹿らしく感じた。余裕が無いように思われるなど真っ平御免だ。しかしこのまま好き放題にされるつもりもなかったので、屈んでいるため丁度いい位置にあるリクオの髪束を思い切り引っ張った。「いてっ」と声がして、漸く素肌から唇が離れる。肌蹴させられた胸元のせいで居心地が悪かった。

「何すんだ」
「こっちの台詞だ。ガキの癖に盛ってんじゃねぇ」
「何言ってんだ、ガキだから盛るんじゃねぇか」
「口答えするな。大体妖怪が花開院の本家に乗り込んで来てタダで済まされると思うなよ」
「うちのじじいは昔、此処で飯食って帰ったって言ってたぞ」
「だからうちに言伝があったんだろうが。三代に渡ってまでうちに迷惑を掛けるな」
「親父は関係ねぇから三代じゃねぇけどな」
「…どうでもいいんだよ、そんなことは」

危うく話題を逸らされそうになり、自分に勝るとも劣らないマイペースぶりに感嘆さえ覚えた。話題を逸らそうとして言っているのではなく、本気で言っているのだから性質が悪い。妖怪だからマイペースなのか生来の性質なのか、付き合いが浅い竜二には分からなかったが、このままだと流されかねないのでそんなことを考えている暇もない。

「いいじゃねぇか」
「…良い訳があるか」
「羽衣狐にやられ掛けたとこ助けてやったろ。礼代わりに寄越せ」
「礼はあの場で言っただろうが」
「足りねぇよ、あんなんじゃ。俺はお前が欲しいんだ」

脈絡のない告白に面食らっている間に、唇同士が触れた。突然のことで対応も出来ず舌を絡め取られる。ガキの癖に、と思うが、思うだけで抵抗は表さない。あくまで自尊心が大事だ。妹と同じ年の子供、しかも妖怪相手に取り乱す所など見せたい筈がない。本当は怒りに任せて鳩尾でも股間でも蹴り上げたかったが、密着されているのでそれも出来ない。せめて顎を持ち上げる手を振り解こうとすれば今度はその手が空いていたらしい手で掴まれ、結局何も出来ないまま口付けを交わし続けた。条件反射で洩れる吐息が憎かった。反応などしたくないのに、反射と言うものは意思とは関係無いのだから厄介だ。漸く唇が離れた所で、素足の踵で足先を踏み付けてやった。鈍い音がして悲痛な呻きが部屋に響いた。

「いってぇ……何すんだ、おい」
「だからそれは俺の台詞だと言っているだろうが」
「本当にじゃじゃ馬だな、お前は。まぁそこがいいんだが」
「…何言ってやがる」
「俺がお前に惚れた理由だよ」

臆面もなくそんなことを言ってのけて、また軽く口付ける。どうやらこの男には幾分気障な所があるらしい、と思った。先程の告白と言い、普通の人間では恥ずかしくてこんなことは言えないだろう。言うのは余程の女たらしくらいだ。こいつも生来女癖が悪いのだろうか、と思ってから、今現在口説かれている自分は男だと言うことに気付いた。いや、口説かれているのかどうかも未だよく分からないのだが。

そもそも、自室で一人書物を読んでいた所に突然リクオが現れた時から何かがおかしい。「あんたに会いたくなったから来ちまった」と言った声は、東京と京都の距離を忘れるほどあっさりとしたものだった。その時点で、何を言っているんだこいつは、と不可解に思ったものだったが、言葉を交わすごとに不可解なことが増えているのはどうしたものだろうか。自分の中にいっそ面白がる気持ちが湧いて来ているのも不穏だ。この辺りで改めて問い詰めなければうっかり襲われる可能性も少なくない。もう一度口付けようとしていたリクオの口を手で制止して、「お前は何を考えているんだ」と問うた。

「何って」
「突然人の部屋に現れて人を壁に押し付けるとはどう言う了見だと訊いている」
「だから、言っただろ。あんたに会いたくなったから来たんだよ」
「…そもそも、何だそれは。人のことを欲しいとか何とか勝手に言いやがって、大概にしとけよ、仰言喰らわすぞ」
「落ち着けって。…あれは相当痛かったから勘弁してくれ」

強ち冗談とも言えない脅しを掛けると、リクオは苦笑して竜二の手に自分の手を重ねた。仰言を喰らわせると言う言葉を実行に移させない為か、それとも単に手を重ねたかったのかは分からないが、リクオのことが分からないのは竜二にとって今に始まったことではないので、今更気にするつもりもなかった。強いて言えば、重ねられた手が自分より大きいことが腹立たしかった。
僅かに心を許し始めていることに、竜二自身、未だ気付かない。

「なぁ、竜二」
「…何だ」
「さっきの、礼代わりに、ってのは冗談だが、お前が欲しいって言うのは本当に思ってんだよ」
「…それがどうした」
「ここで相談だ」
「だから、何だ」
「俺のもんになっちゃあくれないか?」

これこそ妖怪任侠一家とやらの若頭として地位を確立した者の笑顔なのだろう、と言うような、自信に満ち溢れた顔だった。いつも皮肉交じりに何らかの思惑を隠し持つ竜二の笑みとは正反対の、混じりけのない純粋な笑みだ。

「…お前の物になると言うのは御免だが」
「…まぁ、予想はしてたけどな」
「お前に少し興味が湧いて来た」
「…え、…嘘じゃないだろうな」

竜二が嘘吐きだと言うことを知っているリクオは、少し警戒するように訊いた。「嘘だと思うならそれでも良いが」と返せば、先程と同じような自信に満ちた顔で笑って「嘘じゃねぇみてえだな。目が違う」と言いながら、竜二の顎を持ち上げた。

「興味ってのは、どう言う意味だい」
「…フン。言わせたいのか?」
「…流石に、一筋縄じゃいかねえか」
「当たり前だ。言わせたいなら、もっと興味を湧かせてみろ。お前次第だ、奴良リクオ」

立場を取り戻す意味も含めてにやりと笑うと、リクオは諦めたように肩を竦めた。そして竜二の顎から引いた手を自分の腰に当てながら微かに眉を歪めると、「どうにかして今日中にものにしたかったんだが、駄目だったか」と言って笑った。そんなことまで考えていたのか、と内心呆れる竜二に「それじゃあ、今日は御暇するか。流石に明日まで帰らねぇんじゃ、青やつららが心配するからな」と告げて踵を返した。散々人の安息を掻き回した末に自分の都合で帰るとは、やはり妖怪は自分勝手なものだ。しかし竜二の心に、以前程の嫌悪は湧いて来なかった。

「今度会う時は俺のモンだ」
「…言ってろ」
「じゃあな。御馳走さん」

最後、振り返ってそう言うと、リクオの姿は煙のように立ち消えた。恐らくは"畏"とか言うものを使ったのだろうが、妖怪退治を生業としているとは言えあくまで人間の竜二に、それを視認することは出来なかった。もしかするとまだ部屋に居るかも知れないと思うと胸糞が悪いが、姿が見えなくなっただけでも、今まで感じていた妙な違和感がなくなって密かに安心した。
しかし、茶などは出した覚えがないのに御馳走さんとは何の事なのか、としばらく考えた。最後の最後で悩みを残すとは嫌な奴だと思った後、すぐ、何度もされた口付けのことだと思い至る。未だ居るかも知れない相手に向けるように舌打ちしたあと、時計に目を向ける。驚くことに、あれほどの濃い出来事が起こったのはたった30分ほどでしかなかった。その時間の感覚が、闖入者に惑わされた何よりの証のような気がして、もう一度舌打ちした。リクオが現れるまで読んでいた本にまた意識を向ける気にもならず、苛立ちながら寝支度をするために自室を出た。既に深夜と言える時間帯、見張りの陰陽師以外は見当たらないような静謐とした本家の廊下を、竜二は怒りに身を任せ遠慮なく足音を立てながら歩いた。声を掛けようとした見張りが恐れ戦いて口を閉ざすほどの剣幕で長い廊下を歩いて洗面所に着いた時、こうして怒りを表すことも惑わされた証であるかも知れないと気付く。完璧に、あの妖怪の影が脳裏に焼き付いている。溜息を吐いて長い前髪をかき上げたところで、立っている事が面倒になって壁に凭れた。これから更に面倒なことになりそうだと、自分から焚きつけたことも惑わされたことも心から締め出し、だるい体を動かして蛇口を捻った。体液を自在に暴れさせることも敵を溶かすことも猛毒を持ち分身を作ることもないただの水は、触れるとひたすらに冷たく、てのひらで揺蕩いながら流れ落ちていく。その抵抗のなさに、自分がそれに似ているような錯覚を起こした。障害があればそこで止まり、無ければ止め処なく流れる水。今の竜二は揺蕩っている。何か、障害が無くなれば流されてしまうかも知れない。その何かが何なのかは分からなかったが、無くならないことを祈るばかりだった。もしそれが無くなれば、重力に従って落ちるほか、何も出来ることはない。

何処かでそれを望んでいるかも知れない。しかしその事実を認めることは恐ろしい。

リクオの痕跡を消すように顔に水を被り、乱暴に手の甲で拭う。痛むほど擦ったにも関わらず、唇に触れられた感触がしつこく残っていて、竜二を苛つかせた。体ではなく心に痕跡が残された気がするのも、また腹立たしかった。









始まりのような
うちの夜若竜は幾つ始まりがあるのだろうか

2011/09/04