「良い季節だな」

秋の夜風を体に受けながら、ゆっくり、慈しむように呟いた。既に日課となっている、夜の散歩。今宵は蛇を連れて来ず、あえて自分の足で、見慣れた道を眺めながら歩く。右へ左へ視線を移動させ、昼との違いを楽しむ。少し寒いくらいの風だが、リクオはこの季節が好きだった。夜中なので人間とも擦れ違わない、自分だけの時間。

(やっぱ、散歩は夜に限るな)

袂に両手を突っ込み、ぶらりぶらりと気の向くまま歩を進めていく。そうして河原の近くまで来た時、木立がざわめくのを感じた。何かの気配がする。ん、と呟いて、気配のする方へ歩いてみることにした。顔見知りの妖怪なら面白いし、人間ならそれもまた一興、と思いながら。

それが見え始めたのは、リクオの足で1分程歩いた、と言うところだった。闇夜に浮かぶ、紺青の衣装に、下駄。その恰好と小さな体躯に、見覚えがあった。花開院竜二、クラスメートである花開院ゆらの実兄でもある陰陽師だ。歩みを止めず近付いていくと足元に妖怪らしき残骸が見えたので、仕事か、と気付く。週末の夜とは言え、ご苦労なことだ。足元の残骸はどうやら奴良組の妖怪では無さそうだったので、気楽に近付く。

「竜二じゃねぇか。奇遇だな」

ここで会ったのも一興、と思い、声を掛けてみることにした。緩慢に振り向いたその相手は、いつもの鋭い瞳で以て呑気なリクオを射抜く。しかし、そのいつも通りに見えた中に、何か違和感があった。知れず、首を傾げる。その何かは分からなかったので、とりあえず気にしないことにして更に竜二に近付いた。

「…こんな夜中に何をしている、妖怪」
「相変わらず、言うねぇ。あんたは仕事みたいだが、オレはただの散歩だよ」
「フン、いいご身分だな。折角だから俺の仕事の一部になってみるか?」
「遠慮しとくよ。オレには三代目としての役目がまだまだ残ってるからな」

初対面が嘘のように軽口を叩き合いながら(竜二の方は強ち冗談でもなさそうだったが)、真正面に辿り着く。やはり、何かの違和感がある。今度は、気付いた。瞼がいつもより重そうに見えているのだ。心なしか、眉間の皺も深い。

「眠いのか?」
「…何がだ」
「目、何か変だぜ。あんた、目の印象強いからな」
「何でもない」

間髪入れずに返したその声が、微かに掠れていた。あと少しで原因が分かる気がするのに思い出せない。何だったか、と思ってひたすらに少し下にある顔を見ていると、頭が急に上下して苦しそうな息が聞こえた。咳だ。ああ、と頷く。原因が分かった達成感と、こんなのでも風邪引くんだな、と言う彼にとってかなり失礼な感想が浮かんだ。

「風邪引いてんのか?そんな時にも仕事すんのか、大変だな。しかもわざわざこっちまで来て」
「…余計な世話をするな。ガキは家に帰れ」
「こんな時間、まだまだ序の口なんだがな…」

強気に言い放った後踵を返し勝手に歩き始めた竜二の背中を見て呟くが、その背中を見送ることはなかった。話す相手も居なくなったことだし散歩へ戻ろうかと振り返り掛けたところに、どさっと言う音が聞こえたからだ。残っていた視界の端で倒れる竜二が見えて、急いで走り寄る。妖怪の敵である陰陽師でしかも一度は本気で戦った相手とは言え、見捨てる訳にはいかない。
路上に倒れた竜二は、それでも自分で起き上がろうとしていた。しかし動作がひどく緩慢で、最初の違和感もやはり体調の悪さから来ていたのだと分かった。上半身だけ起こしたところで、また激しく咳き込む。起き上がろうとしているところに手を貸すと気に障りそうだ、と屈んで見守っていたのだが流石に黙っていられず、咳き込み続ける背中を支えた。掌に伝わる熱が、驚くほど熱い。コートが僅かに湿っているのは、熱で生じた汗のせいだろう。厚みのあるコートでこれなら、中の着物はもっと酷いに違いない。触れて実感したところでいよいよ本気で心配になり始めて、思わず反射的に「大丈夫か」と訊いていた。

「…大丈夫だ、触るな」
「お前、どう見ても大丈夫じゃねえだろ、こんな時に強がるなって」
「強がってなどいない、さっさと帰れ」
「…あぁ、帰るさ。散歩なんてしてられねぇからな」

尚も立ち上がり独りで歩こうとする竜二を軽く抱き上げたリクオは、竜二が行こうとしていた方とは逆の、自分がやって来た方へと勝手に歩き始める。勿論、自宅への道だ。病人を道に放っておく訳にもいかないし、支えて歩くのも骨が折れそうだ。こうするのが一番早いと思ったからの行動だが、やはり竜二は抵抗した。しかし、その抵抗も体調のせいか余り強いものではなく、精々弱い力で腕を掴んだり着物を引っ張ったりするくらいだった。結局、諦めたのか疲れて気力が無くなったのか、数十メートル歩いた所で遂に抵抗が止んだ。安堵の混じった溜息を吐いて、ちらりと竜二を見る。かなり不服そうに険しい表情をしていたが、熱で火照った肌のせいで凄みがなく、彼には悪いが少しだけ微笑ましかった。

「…妖怪に介抱されるとは、我ながら情けない」
「案外、自分の体調管理が出来てないんだな。ゆらに言ったらどうなるかな」
「…これ位なら大丈夫だと思ったんだ。今更言っても、どうにもならんが」
「そうだな。これに懲りたら、疲れた時はちゃんと休めよ」

言われなくてもそうする、と呟きのような言葉を拾う。発言自体はしっかりとしていたが、声は掠れて弱々しかった。身を任せることで気を張らなくても良くなったからか、竜二の意識は今にも落ちてしまいそうだった。触れて分かる程の熱だ、さぞ朦朧としているだろうに、ここまで気丈に振る舞っていたことの方が信じられない。そうなるのも当たり前だと言えた。

「竜二、着くまで寝てろ。まだ少し歩くぞ」
「…着いたら、起こせ。既に見られたお前はともかく、他の奴らにまで、見られたくはない」
「分かったから、ほら」

抱き上げたままの左手で、促すように軽く叩く。母親が子供を寝かしつける時のような手つきを意識したが、竜二がそれに気付いたかどうかは分からない。ただ促されるままに静かに目を閉じて、聞こえるのは熱っぽい吐息だけになった。そしてそれもやがては、深いものへと変わって行く。

(妙なこともあったもんだ)

いつもの散歩が奇妙な出会いを齎したことについて、そう言った感想を持つ。まだ懐柔の余地があるゆらでさえあれ程取り乱した組の妖怪たちは、一体どのように思うのだろうか。その辺りは不安だったが、竜二がここまで弱っている以上、そこまで警戒心を持たないだろうと言う希望的観測をした。それに、例え妖怪に反対されたとしても母に言えば何とかなるだろう。人間である母は、リクオと同じく人間と妖怪の垣根なく人に接する。

様々なことを考えながら、自宅の門の前に着いた。約束させられた手前、小声で名を呼びつつ手でも軽く叩いてみたが、深い眠りに入ったのか意識がないのか、それくらいでは起きてくれなかった。しかし完全に起きるように振る舞ったところで、体調を悪くするばかりな気がして、起こすのを諦めた。見られたくないのなら見られないようにすればいいかと思い、畏を使って門から入った。よく知った奴良組の面々ではばれてしまう事もある気がしたが、その時はその時だ。
結局、何とか見付からずに自室に辿り着くことが出来た。コートだけ脱がせて、竜二を自分の布団に寝かせ、要るものを取りに行く。襖を閉める寸前に顔を盗み見るが、依然苦しそうな息を吐くだけで、すぐ目を覚ます気配は無さそうだった。

自分が看病された時を思い出して氷と飲み物は必須だろうと考え、台所へ歩く。家の中で起きている者は多いようだが、台所には誰も居ない。遠慮なく音を立てながら物色を始めた。用意したはいいが一度に全てを持てないことに気付き、とりあえず氷水を入れた盥と手拭いを脇に抱えて部屋に戻った。枕元に盥を置くが、眠っているのか気付いていないようだったので、また台所に足を運び、グラスに入れた水と自分の酒瓶と盃を持って先程と同じ道を辿る。布団の横に胡坐を掻いて座り、氷水に浸けて絞った手拭いを額に乗せた。手拭いの下敷きになってしまった髪を指で取り払う。水を飲ませた方がいいのか考えるが、無理に起こすのも良くない気がして、止めた。しばらくは盃を傾けながら何をするでもなく竜二を見つめていたが、ふと思い立ったリクオは、盃を傍らに置いて部屋を出た。

思いの外時間は掛かったが、何とか目的のものを見付けて戻ると、竜二の目が薄くではあるが開いていた。「大丈夫か」と声を掛けながら、腰を下ろす。

「一応薬あったから持って来たぞ。飲めるか」

銀色の包装シートに包まれた錠剤とグラスに入った水を差し出す。風邪薬はなかったので母が常備しているらしい鎮痛剤だが、解熱効果があったはずだから、効果がないことはないだろう。竜二は一瞥すると、飲める、と小さく呟いた。

「体、起こせるか」
「…それくらい、出来る。馬鹿にするな」
「してねぇって」

悪態をつかれ笑いながら、咳き込みつつもゆっくりと体を起こした竜二に薬と水を手渡した。起きた拍子に、額に乗せてあった手拭いが剥がれ落ちた。布団に落ちたそれを拾い上げて、序でだと思いもう一度氷水に浸けて、絞る。竜二が目だけでリクオを見た。

「…悪いな」
「…どうした?お前らしくないぜ」
「流石に、自分が情けなくてな」

そこまで言うと、二度咳き込んだ。少しだけ間を置いて一気に薬を流し込んだことを見守ると、「気にすんなよ」とだけ言って微笑んでおく。それで持ち直すとも思えなかったが、竜二はリクオを見ると、僅かに笑った。熱のせいか意図的なものかその笑みは微々たるものでしかなかったが、何処か自嘲するような笑い方だった。不思議に思って、訊いた。

「何だよ、どうした」
「…いや、ゆらがお前に心を許したのも、分かる気がしてな」
「はぁ?」
「あいつも何度もお前に助けられたと言っていた。お前はそうして、人間でも妖怪でも、陰陽師でも、…お前を滅しようとしたこの俺でさえも、垣根を気にすることなく助けてしまえる。…ある意味、脅威だよ」
「…そうか?」

そう言う性格なんだよ、と続けると、今度は眩しそうに笑った。自分は到底そうなれないのだと思っていそうな顔だった。いつも自信ありげな竜二にしては珍しい、その表情。しかし、これも風邪のせいだろう。治ってまた会ったとしても、お前が勝手に助けたんだろうが、とか言いそうだなと思いながらも、「いいから、寝ろよ。治るもんも治らねぇぞ」と声を掛けた。その言葉で素直に体を寝かせた後、「喋り過ぎた」と呟かれて、その懸隔に笑った。

「…今日のことは、忘れろ。熱のせいだ」
「分かったから寝ろって。眠れないんなら添い寝してやるから」
「要らん」

薬が効いて来たのか、リクオの冗談を突っ撥ねる声も少し眠そうだ。ただ、本人にはそのまま眠る気がないようで、途切れ途切れながらも、今更思い出したように、運んでいる間にした約束のことを口にした。

「…誰にも、見られてない、だろうな」
「見られてねぇよ。オレを何の妖怪だと思ってんだ、安心しろ」
「それなら、いい。お前だけなら、許して、やる…」
「え?」

最後のリクオの声は届かなかったようで、返答がないまま竜二は眠り始めた。まさに落ちた、と言うのが正しい、唐突な寝方だった。息の熱っぽさも多少はましになり、穏やかな寝息が聞こえる。しかし最後の言葉が気になって、もう一度起きないかと穴が開くほど顔を見つめてみたが、しばらく待っても何も変化はなかった。動くのは息をする時の喉と胸部くらいで、案外長い睫毛に隠れた瞳は、覗くことがなかった。深い眠りだ。そしてそれを見ている内に、いつの間にか、リクオも眠りに落ちた。

目が覚めた時は、既に朝で、人間の姿に戻っていた。リクオの朝は早い。夜の姿で夜中まで町をうろつき、昼の姿で学校に行き清十字団の活動に従事し、その上早く起きるのだから慢性的な寝不足だ。だからこそ夕方に眠くなるのだが、どちらも大事な時間なので、削るつもりは毛頭なかった。体を起こし、被っていた布団を退かそうとしたところで、異変に気付く。横を見るが、白い敷布団だけが目に入った。そこに寝ていた筈の人間がいない。もう帰ったのかと行動の素早さに呆れながら、欠伸を噛み殺して襖を開けた。顔を洗いに洗面所へ向かっていると、台所の前に竜二がいた。驚くことに、珍しく早く起きたらしい母と談笑している。目を丸くして口を開けたまま立ち止まるリクオを母が見つけて、笑顔を振り撒いた。

「リクオ、お母さんが知らない間に頑張ってたのねぇ。言ってくれればお弁当とかお夜食作ってあげたのに」
「…え、何が?何を?」
「惚けちゃって〜」
「朝早くから、済みませんでした。これからお忙しい時間でしょうし、俺は失礼します」
「あら、もっと居てくれてもいいのに」
「ありがとうございます。でも、申し訳ないですが新幹線の時間もありますので、お気持ちだけ。お世話になりました」

別人のようににこやかな笑顔と丁寧な敬語を操る竜二に、母は「また来てね〜」と笑っている。何が何だか分からないリクオに、母は追撃のように「駅まで送って行ってあげたら?道も分からないかも知れないし」と告げた。

急いで身支度を済ませ着替えるリクオを、竜二は先程の笑顔のまま部屋の前で待っていた。戦きつつ、無言で廊下を歩いて、門の外に出る。そこでようやく笑顔が消え、いつもの不機嫌そうな顔に戻った。何故かそちらの方が安心して、溜息を吐く。

「世話になったな」
「…えっと、もう、大丈夫なんです、か」
「まだ微熱はあるが、昨日程じゃない。あぁ、お前の母親には適当に説明しておいたから口裏を合わせておけ」
「…何て?」
「『俺が仕事で東京に来た時たまに修行に付き合って貰っていたが、昨日は思わず妖怪に出会い退治に時間が掛かったことで電車を逃したので泊めて貰った』、以上」

説明としてはそれ程無理のないものだった。流石に嘘吐きを自称しているだけあるんだな、と感心した。竜二はちらりとリクオを見ると、「本当に全く違うんだな」と呟いた。

「え?…昼と、夜が?」
「そうだ」
「よく、言われます。別人みたいだって」
「見た目は、まぁそうだな。中身は何だかんだ言って共通している気がするが」
「え?」

意味深な一言を発した後、竜二は踵を返した。「ちょっと待って!」と叫ぶが、背を向けたまま軽く片手を上げ、そのまま歩き去ってしまう。
昨日程体調が悪くない、と言った上で他人に見つかりたくないと言っていた竜二が勝手に出て行かなかった理由については、母が言った通り道が分からないものだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。竜二は何も言わなくても駅への道を歩いていた。朝の道に、下駄の高い音を響かせながら。
もしかして礼を言う為に待っていたのだろうか、と言う考えが頭を過る。まさかあの人に限って、とも思うが、考えてみれば竜二は決して非常識な訳ではない。ただ、実の妹に対する態度が多少非道なだけで。妖怪を滅そうとするのも陰陽師からすればごく当たり前のことなのだ。まぁ、本質的な性格はともかく、行動は相当破綻しているのだが。

「実はそんなに、悪い人でもないのかな…」

リクオは独り言ちてから、腕を組んで顔を顰めた。そのまましばらく立ち止まりそれについて考えていたのだが、風が吹いたことで思考が中断した。急いでうっかりTシャツで出て来てしまったため、かなり肌寒い。その寒さの中、昨日のあの人は本当に人の熱を持っていて温かかったな、と唐突に思い出して、肌を粟立てながらひとり、赤面した。







( 温む距離 )










一度書きたかった、『風邪引いて倒れてお姫様抱っこされる竜二』。
この竜二はその内デレるんじゃないかと思います。
若干季節外れになってしまいました。だが気にしない。

2011/11/23