妹が家に連れて来た如何にも恋人然とした男は、
俺が昔、若気の至りで付き合っていた男だった。

妹は知らないにしても、相手の男は知っていた筈だ。苗字が同じで、尚且つその苗字が滅多と無いものなのだ。おまけに、俺はあいつに妹の話をしたことがあった筈だ。覚えていたかどうかは定かではないものの、警戒くらいはするだろう。それに、偶々玄関で会ったと言うのに、あの表情は。あの、微かに待ち望んでいたような、それでいて畏を帯びているような、あの顔、は。

だが、まぁ。
昔は兎も角として、今現在が妹の男と言うのなら、俺には関係のないことだ。妹―ゆらは否定していたが、実際まだ友人関係だとしても、満更でもなさそうな表情を見れば、そうなるのも時間の問題と言えよう。帰宅してすぐはそう言った事を考えていたが、やる事を全て終え、読み掛けの本を開いた頃には、それら全てが脳の片隅に追いやられていた。つまりはその程度の、通りすがりのような存在だったのだ。奴良リクオと言う男は。

関係を持っていたのは、俺がまだ高校生の時分。何故知り合ったかは既に忘れたが、相手がやたらと俺を気に入り、別に断る理由も無かったので、流されるように世間には隠した付き合いを始めた。はじめの頃こそ、こう言う世界もあるのかと思ったものだったが、相手が三つも下の中学生だったからか、それとも俺の元々の性分か、相手の気持ちが高じ束縛が続いて来ると嫌気が差し飽きてしまい、最終的には盛大な喧嘩をして連絡を取らなくなった、ような気がする。曖昧な記憶を探っても、どう言う言葉を交わしたのか、どう言う内容で喧嘩をしたのか、全く覚えていない。あいつのことは、別に、嫌いでは無かったのに。そして、あいつは、過剰な程に俺のことを気に入っていたのに。俺の中では、ただの通りすがりなのだ。全く薄情なことだ、と笑えるほどに。

だから、自室の扉が何の前触れもなく開いても、俺は驚きもしなかった。

顔を上げることはしない。ただ文字に没頭している振りをして、様子だけを窺う。床の軋む音。一歩、二歩。近付いて来る。気配がないのに、足音だけ。些か気色が悪いのに、思い出す。こう言う男だった。いつでも、何の気配もなしに傍に居て。脳が、記憶を。滲ませながらも、思い出す。

後ろから抱き締められて、身体が傾ぐ。
割合強い力だ。当時より成長したのか、絡む腕の感触が違った。触れられたことで、朧気な記憶が、少しずつ鮮明なものになっていく。あいつの表情の一つ一つを、俺は覚えていた。数分前までは脳の片隅に埃を被って落ちていた色の褪せたそれが、鮮やかな色彩を取り戻し始める。体温の高いそいつの腕から熱が移り、俺と言う器の形が変えられる、果ての無い感覚。

「竜二、」

何処か懇願めいた響きを持って、名前が呼ばれた。声は変わっていないのだな、と薄く思うと共に、嘲笑が零れた。その声に、未練、を、感じたのだ。あれから、四年も経っているのにも関わらず、まだ。愚かで、愚か過ぎて、愛しくなるほどだ。馬鹿なものは、可愛い。妹然り、この男、然り。心が、嗜虐と、懐古に溢れた。
そいつの感情を知りながら、出来る限り残酷に聞こえるようにと、言い放つ。

「ゆらはどうした?今頃、お前を探しているかも知れんぞ」
「…ゆらには悪いと思ってる。だがオレは、お前に会いに来たんだよ」
「…フン、酷い男だな」
「お前のことが、好きだ、ずっと。あの時から、忘れられねぇ」

本を閉じて、向き直る。ごく近くに、そいつの顔。整った目鼻立ちにそぐわない、呆れるほど情けの無い表情。頬に触れると、痛みを堪えたような表情に変わる。そして、何かを決意したように息を呑んだあと、顔が近付いて来る。唇が触れた。当時、こいつから溢れ出ていた恋慕が、更に濃くなって、流れ込む。それと共に、醜い劣情を、感じる。唇が離れたにも関わらず、腕に込められていた力は、更に強くなる。苦しさを覚えるほどに、強い。心も、身体も。この男の腕と心に縛られて、動くことが出来ない。ただ薄く笑って、動向を見守るのみだ。

「竜二、お前…」
「何だ?」
「…オレのこと、どう思ってんだ?」

僅かに不安げな顔で訊ねるそいつに、俺は何も答えない。表情は変えずそのままで居ると、本の上に置いた俺の手の上に、そいつの手が重なる。もう一度名が呼ばれ、耐えかねたかのように、また唇が触れる。それを嘲笑う資格はないのに、自然、口元が歪んで、温い舌を受け容れる。

好き、だとか、愛している、だとか。そんなものとは全く無関係に構築された、足元の不確かな、この何か。流れは途絶えていた筈なのに、解けてすぐ混じり合う、ぐずぐずとしたもの。この男は些か独り善がりな恋慕で俺を求め、俺は歪んだ優越感で以て、この男を受け容れる。

この欲の果てに、何もないことを知っている。それでも拒まず、互いを、求め続ける。頭から喰らい合うような、それでいて至極濁った快感を伴う、関係。あの当時より面白くなりそうだと、独りで哂った。

「好きだ、と言うことに、なるのかも知れないな」
「…嘘、だろ」
「嘘だよ。…それでも、嬉しいだろう?」
「…嬉しいよ。例え誰かを傷付けても、…例えお前がオレを見てなくても、お前が居てくれるだけで、嬉しいんだ」

無暗に力を込めるそいつの背に手を当てながら、いつか思ったかも知れない、純粋な好意についてを考えた。既にそれは、憧憬でしかなかった。









それなら果てまで









2012/6/14